新橋花柳界の歴史

江戸末期から始まる新ばし花柳界の歴史。武家の下屋敷が立ち並ぶその頃、腕の立つ美人の師匠が集まって芸能村が興ってから、ひとりひとりが新しいものことを、前向きに、そして貪欲に取り込み、新橋という街を形成していきました。唄や踊り、芸能の盛んだった時代はもとより、遊びがひとつの文化として成熟した今でも尚、そのあり方を探し続けています。ここでは新橋が、歌舞音曲を日本文化のひとつとして発信するにいたるまでの歴史を紐解きます。


新橋花柳界と東をどり

新ばし芸者の始まり

安政4年(1857年) 酌取御免 

当時の金春新道(こんぱるじんみち、現在の銀座八丁目)で常磐津指南をしていた人気の女師匠が、しばしば付近の料理茶屋や船宿の宴席に呼ばれるようになり、幕府に御墨付をいただきます。 

幕末期(1853~58年頃) 各藩の御留守居役(おるすいやく、外交官のこと)達の公儀や他の藩との折衝、社交の場として新橋花街が多用される。

特筆すべきは、後に明治政府を樹立する薩長土肥の志士達の多くが新橋の馴染であったことです。当時まだ若く、西国出で無粋と見られていた彼らは、江戸文化の粋と呼ばれた柳ばしの花街では歓迎されなかった為、新興の新橋での宴席を好んだそうです。

明治時代(1868-1912) 新橋の花街が日本一の社交場と称されるほどの発展を遂げる。

明治政府の要人だけでなく、彼らをもてなす政財界の面々が自社の応接間のように新橋の料理屋・待合を使うようになります。また、目の肥えた財界茶人が新橋で茶器や書画等を御披露する御茶会を開く機会も多く、茶屋の主人・女将・芸者達にも一層の教養と洗練された嗜みが求められるようになりました。新橋は、他所の花柳界に先駆けて芸者の専科制を実践し、芸事では一流の講師を招いて技芸の向上に努めました。

大正14年(1925年) 新橋演舞場 開場

お客様の御後援と、芸者衆の日々の玉代からの積立てを基に、芸の発表の場の創設に至ります。

昭和23年~(1948年~) 「東をどり」の復興 

第二次世界大戦(1939~1945年)による空襲で焼け落ちた新橋演舞場を新橋の精神的支柱として蘇らせようと、昭和23年春に「東をどり」を再開いたしました。川端康成、谷崎潤一郎、吉川英治、川口松太郎など戦後文学の綺羅星に戯曲を依頼し、舞踊劇という新機軸を加えて、一流画家による舞台美術等、花柳界ならではの御縁を頂いて、豪華な舞台で人気を集めました。また、まり千代をはじめとするスター芸妓の登場により、一般の女学生にまでファンが広がって行きました。

春秋に二回、月興行であった東をどり、時を経て今は、五月末の公演となりました。


東をどりの変換

芸者が舞台から幕間ロビーへ足を運び、料亭が食を饗する文化サロンへ

150年目の作り替え

街の始まりから150年の節目を迎えた新ばし花柳界。このとき東をどりに新しい風が吹く。料亭が応援から参加へと替った。芸者と料亭がひとつになり、東をどりに楽しさをと、気が集った。

一見お断りの花柳界、料亭はこの国、最後の秘境かもしれぬ。

東をどりはその門を開けるとき、日本の綺麗や素敵をそこに置こう。演舞場を新橋を象徴する料亭に見立てる試みは始った。

料亭とは何か、美味き食と旨き酒、ここまでは料理屋と呼ばれる。芸者と芸能で違いが生じる。ならば、東をどりに食と酒で料亭が出来る。ここでの想い、このときならではをつくること、知恵を出し合う。

ひとつ献立からの松花堂は、その店の風につくり違いを競い合う。料亭らしき鮨折をと手合せをし、桟敷の膳には温かさ、食が出揃う。

オペラに似合うドン ペリニヨン、和の肴を合せ、ここならではをつくる。芸者が点前する茶席に加え、幕間の売り子となり親近をつくった。千社札でデザインする団扇、プログラム小紋柄の扇子はここだけの売り物。歴史をふり返り今を想う展示、若手の有志が製作を買って出た。

散りばめられた料亭文化のあれこれは150年で培われたもの。それらは街の原点、進取の気風を今へとつなぐ


新橋花柳界に名を残したスター芸者 まり千代

橋本明治作 まり千代像 東京国立近代美術館所蔵

まだ踊りや小唄が庶民に身近だった頃、進取の街、新橋にひとりのスターが生まれました。立ち姿が舞台に映え、凛とした佇まいは江戸っ子好みの粋な印象、今で云うハンサムビューティー。その卓越した技量は当時数千といた新ばし芸者の頂点に立つにふさわしいものでした。彼女の名は、まり千代。彼女を一目見ようと女学生たちは新橋演舞場の楽屋口に垣根をつくり、ブロマイドや羽子板市の羽子板は飛ぶように売れました。熱狂的な人気は「まり千代ブーム」として戦後一気に沸き立ちます。(Wikipediaへ